はじめに
インターネットで「筋短縮症」と検索すると「筋拘縮症」と両方の名称が出てきます。
知らない方のために明記しておきますと、このふたつは同じ病気を表しています。
1975年の日本整形外科学会にて「筋拘縮症」と統一され、専門家の間で使われていますがそれ以前に「筋短縮症」と診断された名前で覚えている人も多く、どちらの名前でも通用します。
このサイトでも参考資料の記載時に使われていた名称を掲載することで両方の名称が混在しますが、どうぞご了承ください。
薬害筋短縮症の会について
日本での筋短縮症とは、そのほとんどが子どもの頃に受けた注射が原因で発症したものです。
注射をした筋肉の細胞が死滅し瘢痕組織となってしまい筋肉の弾力性や伸び縮みする特性が失われ、それにかかわる関節の運動障害が起こってしまう病気です。
注射を打たれた部位によって大腿四頭筋短縮症(膝関節が曲がらなくなる)、三角筋短縮症(肩関節が曲がらなくなる)、殿筋短縮症(股関節が曲がらなくなる)、上腕三頭筋短縮症(肘関節が曲がらなくなる)などに分かれます。
昭和の高度経済成長期(1955~73年)の間、子どもの病気の治療に注射が多用されるようになっていました。注射は即効性があり注射をしてくれるお医者さんの評判は上々だったのです。
そんな中、1973年(昭和48年)10月に、山梨県で膝が曲がらず変な歩き方や正座ができない幼児が20数人もいて“大腿四頭筋短縮症”と診断されたという記事が全国紙に掲載されました。
その子どもたちは共通して太ももに注射を受けており、見出しには「原因は風邪の注射?」と書かれていました。これがきっかけになり大きな社会問題へと発展しました。
発症した子どもたちの多くは風邪・発熱・下痢の治療に不必要な抗生剤、解熱剤の注射が濫用されていました。
1976年には日本小児科学会が筋短縮症の原因は注射であることが明らかになったとして安易な注射への反省と再発防止のため「注射に関する提言」を発表しました。
これにより、子どもたちへの不必要な注射が激減しました。薬剤の改良もあり、その後の新たな患者の報告はなくなりました。
1977年の厚生省発表の患者数は大腿四頭筋、三角筋、殿筋拘縮症発症者合計が5,487人、要観察者は5,022人とされています。また、自主検診医師団が実施した検診結果では患者数3,151人、要観察者5,403人と発表されました。
筋短縮症訴訟は医師、製薬会社が責任を認めて謝罪、国と医師会の責任は不問という判決で1996年の京都・滋賀の会を最後に7つの裁判全てが和解で終わりました。
国は「筋拘縮症の原因を認識し、公衆衛生の向上に努める」としましたが、裁判により筋拘縮症は薬害と認定されながらも、公的な医療補償も相談窓口も無いまま放置されてきました。
筋短縮症の治療法は手術による関節可動域の改善です。出来る限り最善の方法の研究が行なわれ、1985年に整形外科学会筋拘縮症委員会は治療方針の集大成となる「筋拘縮症の診断と治療」を発表しました。
残念ながら筋拘縮症の手術は完治ではなく、日常生活に支障が無いほどに回復できた後も加齢による体の変化が起きることを予測した記述はありませんでした。
筋短縮症被害者たちは、現在40代後半以上になっています。手術の有無に限らず加齢とともに腰痛を始めとする運動器の不調に苦しみ、悩んでいる当事者は大勢います。
しかし筋拘縮症(筋短縮症)を知る専門医は少なく診察、治療を相談できる医師、病院の情報もありません。薬害筋短縮症の会は、現在も将来的にも継続的な治療が必要であり、全国どこにいても必要な治療が受けられるように訴え続け実現するための活動を続けています。
会の目的
“再び筋短縮症や医療薬害を発生させるな” をスローガンに会員の各種相談・他団体の薬害被害者と連携して、薬害撲滅や被害者救済の運動や活動を行う。
薬害筋短縮症の会 会長 木村和浩